こたつねこカフェ

癖のある俳優さん、悪役さんが大好きです。時代劇、ドラマ、映画、俳優さんのことを好きに書いています。
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亨ちゃんと貴子さん

現在は次シリーズの開始を待っている「相棒」ですが、そういえば初期の頃、岸田今日子さんが出演したことがありました。
「相棒」の主演は、水谷豊さん。
水谷さんに岸田さんといえば、知っている人はつい、思い浮かべてしまう。
74年に放送された「傷だらけの天使」。

このキャスト、主演の修の弟分の亨が、水谷豊さん。
漢字が書けず、字もあんまり良く読めない。
天涯孤独の亨が、身を犠牲にしても慕い続ける兄貴分の修。

そしてこの2人を雇う探偵事務所の社長・綾部貴子が、岸田今日子さんでした。
ベテラン刑事をして、裏の悪の道に通じた、本物の悪女と言わせる綾部貴子。
その悪女が、なぜかかわいがる修。
何と言っても最後に国外逃亡を図った貴子が、旅の道連れに選んだのが事務所で右腕として活躍していた辰巳ではなく、修だったほどですから。

どうしてそんなに修をかわいがったのかというと、そこの所は想像するしかない。
息子のように思えていたのかというと、ちょっと違う。
男として、好きだったのかというと、近いような気はする。

これは私の全くの想像ですが、貴子が悪女になる前、まだ少女だった頃にポイントがあるんじゃないか。
または今のようになる前に、今の貴子を知っている人が誰もいない時代に、あんな少年がいたんじゃないか。
少年は世間の道からは外れざるを得ない境遇だったけど、悪人ではなかった。

不器用で一生懸命で、自分の中の正義に引っかかったものの面倒は、とことん見た。
それが力及ばない相手と戦うことで、傷だらけになったとしても。
人から見たら、さげすまれてもしかたのない少年。

だけど、わかる人にはわかる。
彼と関わった人にとって、彼は天使だった。
「傷だらけの天使」だった。

そういう少年を、かつての貴子は見ていたのではないか。
大人になり、悪女として裏社会に君臨するようになった今、貴子の心を損得抜きで動かす存在があるとしたら、あの時の少年だけ。
そして全くの他人ではあるけど、その少年の面影を宿すのが修だった。

貴子の心の、唯一残された聖域に住む少年。
その少年に似ている修。
だから、貴子は修にかまわずにいられない。

誰にも言わない、誰にもそんなことは悟らせないけど。
貴子の修への思いは、そんな感じに私には見えました。
そう思うと貴子が最後の道連れに辰巳ではなく、修を選んだ理由がわかる気がするんです。

この時、亨は置いてきぼりを食らった。
貴子にとって、亨は修の弟分以上でも以下でもなかった。
修を通しての関係。
まず、修ありきの関係。

こんな風に、亨への貴子の感情は、薄かったように思います。
一方の亨は頭が弱くて、修についていくのが全ての存在。
やはり貴子に対しては、修を通しての関係しかない。

たまにあっても、都合よく動かされる駒。
意識していなくても、結局は動きを読まれて、貴子たちの都合の良い方向に話を引っ張っていってしまう。
要するに利用されるだけの駒だった。

それに気づいたとしても悪女の貴子にも辰巳にも、対抗する術など亨にはない。
貴子と修とは違い、貴子と亨の道も感情も、決して交わらない。
「傷だらけの天使」での亨と貴子、水谷さんと岸田さんはそんな間柄だったと思います。


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狙って作れない「傷だらけの天使」

このところ、週末に「踊る大捜査線」が放送されてます。
改めて見て、やっぱりおもしろい。
そして、確実に一つのジャンルを変え、新しい視点を植えつけたと思います。

このドラマに出た人は、みんな光っていた。
だからその後、大活躍している人が多い。
開拓者のようなドラマですね。


蜷川さんがショーケンについて特集したテレビ番組、「ショーケンという孤独」の中で言ってました。
「(後から出た俳優さんの名前)は楽だったと思う。ショーケン見て、何が受けるか、いいところをピックアップしていけばいいんだから」と語ってました。

やっぱり、原作や脚本はあるものの、演劇として何もない状態で一からを作り上げていく人だと思いました。
何かを何もないところから作り出す人には、その大変さ、すごさがわかる。
物を作る人には、ショーケンが原点であること、ショーケンの苦悩や言いたいことが「わかるんだ」と思いました。

蜷川さんはショーケンという存在について語りましたが、「傷だらけの天使」も同じだと思います。
「傷だらけの天使」路線で、後に名作と呼ばれるもの、ヒット作もできましたけど、この作品とショーケンがいなかったらそれもできなかったと思いますね。

蜷川さんの言うのが正しければ、そりゃ、後にできたものの方が上手くできているのは当たり前といえば当たり前。
でも、このドラマのすごさはそういった作品の出来とはまた、別にある、と。

このドラマは、キャストといい、その俳優さんの素の部分までがシンクロし、また、その時代の若者や空気ともシンクロしてできた、奇跡のようなドラマだったのだと思います。

このドラマより娯楽性を高めて作れているものは、ある。
それを狙って作ったドラマは、それはそれで素晴らしいと思います。
ただ、このドラマのすごさは「計算外」まで行っちゃったところではないかと。

「傷だらけの天使」の素晴らしさは、開拓者の素晴らしさ。
そして、偶然得た奇跡の素晴らしさだと思っています。

だから「作ろう!」と思っても作れない部分がある。
狙って作れるもんじゃなかった。
それはショーケンという俳優も同じ。

「踊る大捜査線」も開拓者。
そして、「傷だらけの天使」もまた、そんな俳優とドラマがシンクロした開拓者の位置にあるものだと思っています。


「傷だらけの天使」 映画化について更に思うこと

「傷だらけの天使」を映画にするのなら、どういう作品にするのかは、やっぱりどうしたって気になります。
そもそも、何故、映画にするのか。
今、「子連れ狼」の続編が描かれてます。
原作者としたらあのラストの後、続編を描かなかったということは、あのまま大五郎をずっと放置していたということで、気にかかっていたそうです。

「傷だらけの天使」も、確かにあのままの状態で修が放置されてるといえば、そうかもしれない。
その他、映画化するには、処々の事情もあることはあるんでしょう。
しかし、映画化するならば、やはりあのラストシーンをずっと心に残した人、衝撃を受けた人に対して誠意のある映画にして欲しい。
「傷だらけの天使」ならではのところは、守ってもらえたらいいな、と思います。

タイトルの「傷だらけの天使」。
これはもう、当たり前だけど、修と亨のことですよね。

決して恵まれた環境にある人間でもなければ、真っ当な道を行っている人間でもない修と亨。
どちらかというと、底辺に近いところを生きているチンピラ。
世間からは眉をひそめられるような、警察と聞けば目を逸らして背を向けたくなるような「傷だらけ」の2人。

そんな2人が、仕事を通じて様々な人と関わる。
自分たちが関わった人間に誠意を感じた時、彼らはその人たちを全身で守ろうとし、体中痛めつけられる時もあり、心まで痛める時もある。
まさに「傷だらけ」になる。

世間的には、ろくでもない人間だからこそ、自分たちの信じるところは守る。
最後の最後に残ったものだけは、大事にする。
そんな彼らは、「傷だらけの天使」。

非情ともいえる綾部貴子と、自分の利益次第で修と亨に敵対もすれば協力もする辰巳との対比で、彼らの損得抜きの奮闘振りはより鮮やかになった。
大概は修と亨が自分たちの無力さを噛み締める結果となったけど、彼らは決して自分たちの関わり方を変えなかった。

このドラマがいつの時代にも一定の共感を呼ぶのは、こういう修と亨の不器用さに共感を抱くからだと思います。
逆に言えば、「いつも損してばっかりでバカみたい」としか思われなくなった時、世の中は大変済みにくくなってるだろうな、なんて思うわけです。

小説「魔都に天使のハンマーを」は、あの情景と修の心情が描かれていました。
(以下、抜粋と要約です)。


あの時。
綾部貴子と共に逃亡しようとした時に、亨がペントハウスに転がり込んできた。
熱が高くて、立っていられることもできない。
修が綾部貴子と逃亡するのを知ると、自分を見捨てるのかと責めた後、亨はアニキアニキと心細い声で呼び続けた。

あの日のことが、修の一番怖い夢だった。
「このまんまじゃ共倒れだ」と言って、修は「アニキィ」とすがりつく亨を振り切る。
言ってはならない言葉を口にした、こんな時に風邪なんか引きやがって!と。
なんで噴水になんか飛び込んだ、と怒った。
わかっていた、金がなかった、亨は修と健太と暮らす金を稼ぐ為にやって風邪を引いた。

修は思っていた、たかが風邪で死ぬわけない、と。
振り切って出ていって、タクシーの中で心配でしょうがなくなった、「アニキ」と呼ぶ声が耳から離れない。
まだ時間はあると思った、良い薬を届けようと思った。
日曜日だから開いてる薬局を見つけてくれとタクシーの運転手に頼んだ。
嫌な予感があった、と。
手間取った、それでもやっと開いている薬局を見つけて薬を買って届けた時、亨はもう返事をしなくなっていた。

どこまでもどこまでもあの声と、一緒に過ごした日々が追いかけてくる。
冷たくなった亨を風呂に入れたけど、風呂で生き返りはしなかった。
でもこれは死骸じゃない、亨だ、亨なんだ。

亨を死骸とは認められなかった修は、「俺、今日おごってやる!」と叫んで町中を歩いた。
一晩、どの店でも拒否され、嘲笑され、明け方、これはもう亨じゃない、死骸なんだということを修はやっと受け入れた。
死骸ならどこかに還してやろうと思って、夢の島へリヤカーで連れて行った。

亨だった死骸が転がって、ゴミが風に舞った。
カラスとカモメが羽ばたきしていた、その時から修は鳥は嫌いだと思った。
アニキ、アニキ、亨の声が追いかけてくる。
うなされて修は目を覚ます。

「魔都に天使のハンマーを」の中では、修が「シャークショ」と呼ぶ男が出てくる。
そのシャークショを修は「ばか!」と殴りかけて、手を止める。

こうして亨をよく叩いたんだ、それは親愛の情があったからだが、でもそんなことは相手には通じない。
通じないまま、亨は死んでしまった。
修に見捨てられたと思って、亨は死んだだろう。

あんな風に怒鳴り散らし、当り散らして、それでも修についてくる、そんな人間はいない。
過去にはいた、でももういない。
この世の中にはそんな人間はいないんだ、そんなことをこの30年で修は学んできた。

刑事に修は言う。
亨の死因は風邪だと。
「亨は風邪だよ。バカじゃなかったから風邪を引いて死んだんだ。それでも俺が殺したって言うんなら、その通りだ。しかし罰はもう受けたよ。ずっと受けてきた。ポリ公なんかに四の五の言われる筋合いはねえや」。

荒れ果てたペントハウスで修は言う。
「亨、亨よぉ。お前、良い時に死んだよ。俺はとんだ死にぞこないだ」。

唯一無二の相棒を修はなくした、助けられたかもしれない唯一の男だった修が死に追いやったも同然だったと修は思っている。
その罪は一生消えない。
そしてその罰は言わなくてもわかる。

唯一無二の存在をなくして一人、地べたを這いずるようにして生きなくてはならなかった人間がどんな思いを抱えて生きていくか。
悔恨と孤独を味わって生きるとは、どんなことなのか。
そして、自分たち2人の何が他人にわかるというのだ、と。


「魔都に天使のハンマーを」は、修が亨の死を背負いながらも生きてきたこと描いていたんです。
亨はもう出てこないけど、ちゃんと「生きている」存在になっていた。
どうしようもない悔恨を抱えながらも、それでも修が亨という存在をしっかり抱きしめて生きてきたことを矢作俊彦さんは描いてくれていた。

「傷だらけの天使」を見ていた人間が、締め付けられるような思いで読める小説にしてくれた。
それこそが、あのラストを見た人間が見たかった、その後の修じゃなかったか、と。
だから、矢作さんの描いた修を「その後」として、多くの人が受け入れたんだと思います。


リメイクでもここを変えたらもう、それは名前を借りただけで別のものになっているというリメイクってありますよね。
「傷だらけの天使」は、昔の名作の名前を借りただけで、全く精神を受け継いでない、そんなものになってほしくない。

修と亨が散々もがいた後に訪れた、あの最終回。
亨を死なせて、綾部さんを逃亡させて、辰巳さんを逮捕させた。
徹底して、「傷だらけの天使」世界を壊した。
そうすることで、修を戻れなくして、「傷だらけの天使」の世界を完結させた。
だから、悲しかったけれど、あれで「傷だらけの天使」は終わりなんだと思っていた。

祭りが終わった後のような寂寥感と虚しさを感じさせながら、「ひとり」をバックに、まさに1人で立ち去っていく修。
あの修と亨のラストシーンを強烈に胸に刻み込んだ視聴者のことを、忘れない作品を作ってほしい。
そう思います。
映画化の話が本当ならば、あのドラマを視聴した1人として、心から応援します。



映画になるの?「傷だらけの天使」

「傷だらけの天使」の映画化という話が出ています。

独立系の日本映画を称揚することで根強いファンをもつ、日本映画プロフェッショナル大賞(日プロ大賞)。
その復活イベントのオープニング・トークショーで、21日、奥山和由氏が萩原健一、水谷豊の主演で「傷だらけの天使」を企画していることを明かしたらしい。

監督は深作健太氏。
撮影は木村大作氏という構想らしいです。
奥山和由氏というと、大変失礼ながら、1994年の映画、「RAMPO」(らんぽ)の奥山バージョン、黛バージョンなどの騒動が思い出されちゃうんですよね…、つい。

30年以上の時を経て、映画になる「傷だらけの天使」ってどんなドラマだったんだろう。

「傷だらけの天使」は現在見たら、主人公たちが何だかいつも報われないし、前半から中盤、そして後半にかけてドラマの感じは変わってくるしで、それほど「すごい名作!」という印象にならないかもしれない。

でもこのドラマがなければ、生まれなかったドラマっていうのもあると思ってます。
影響が見てとれるドラマも、あるいは作為的に影響されたことを隠したドラマも、直接ではなくて実は意外なところでも。
「傷だらけの天使」やショーケンの影響を受けたものは、結構あったと思う。

蜷川さんが、ある昭和を代表する人物像を演じた俳優のことを、「ショーケンがいたから楽だっただろう」と言ったんですね。
「何が受けるか、何が失敗するか、先駆者であるショーケンを見てわかるんだから」というようなことを言ったんですが、「傷だらけの天使」のすごさっていうのは、こういうことなんじゃないかって思うんですね。

あの時代だから作れたパワーとか、時代の空気。
そういうものが一杯にある。
なおかつ、それまでになかったような作品。
ショーケンという存在があって作れた作品。

例えばジェームズ・ディーンの「エデンの東」「理由なき反抗」。
ダスティン・ホフマンの「卒業」。
石原裕次郎の「太陽の季節」や「狂った果実」。
中村雅俊の「俺たちの旅」なんかもそうかもしれない。

それを代表作、または出世作と呼ぶのよ。
はい、そうですね。

主人公が悩み、傷つき、頑張る姿が同世代を投影し、共感と憧れを呼ぶ。
俳優にとっても代表作なだけではなく、時代を代弁している作品。

あまりにもそれが強烈なものだから、だからややもすると、その俳優がその作品のイメージを背負って行ってしまう。
その作品だけが語られてしまう危険もあるような、作品。
それがショーケンや水谷豊にとっての「傷だらけの天使」であり、私たちにとっての「傷だらけの天使」だったんじゃないか、と。

野川由美子さんが「必殺仕置人」について、「ドラマ界に確実にひとつの石を投げ込んだ作品」と言ったけれど、そんなドラマだったんじゃないでしょうか。
中村敦夫さんの「木枯らし紋次郎」もそう。

「傷だらけの天使」映画化に関しては、いろいろと思うこともあるけど。
それでお願い。
映画化するなら、深夜でもいい、昼間でもいい、「傷だらけの天使」の「無難な回」でいいから再放送してみてくださいね!

お願い!
確実に原点になったドラマであり、古典になったドラマを。
そして、何より、時代のトップを駆けていたショーケン、そして今は「相棒」の右京さんである水谷さんの軌跡を見る機会を作って欲しい。

そのカッコよさ。
同時代にいたら、あなたも惚れたかもしれませんよ、って。



傷だらけの天使、最終回、ラスト

最終回、今回は見事なまでの崩壊劇です。

最終回、辰巳もボロボロ。
この変貌振りが過酷な潜伏生活と、貴子への思いを感じさせますねえ…。
修を刺すのではないかと思うほど、辰巳の顔は思いつめて見えました。
声だけは、いつものクールな辰巳でしたが。

「あの人のことだからうまくやっているはず」「そうだな」と、修にも京子にも言われていた辰巳。
その辰巳が今回取った行動、それはいつも修と亨がやるようなことだった。
損得抜きで動く修と亨の裏をかいたりしていた辰巳は、それを笑う側だった。
その辰巳は最後に海津警部に思いっきり「みっともねえ」と言われ、あざ笑われ、手錠に繋がれた。

そして貴子。
「日本はもうダメよ!」と叫んでいた貴子。
警察に追われるようなことも合ったけれど、それ以外で何かとても傷ついて失望していたよう。
ついに日本を捨てる覚悟を決めた。
そして貴子が最後の最後に長い逃亡への旅になる時に選んだのは、辰巳にも京子よりも下の立場のはずの修だった。

中華料理店に修が来るまで、貴子は1人で脱出するつもりだったんでしょうか。
中華料理店のマスターに、「あなたに捨てられたおもちゃの兵隊」と言われて、気持ちが動いたんでしょうか?
貴子にとって修って何だったんでしょう?

ずっとずっと「傷だらけの天使」はあれで終わりと思っていました。
だから続編はないことを前提に話しています。

貴子は劇中では捕まってないからわからないですけど、あそこまで海津警部が来ていたんだからろくなことにならなかった気がするんですね。

修を一人前のワルに育てる…、本当にそれで連れて行くつもりだったんでしょうか?
貴子の行方を探りに行った弁護士事務所での修の脅し。
女性の顔にピッタリ顔を寄せながら、下から「やっちゃうぞ、おい、やっちゃうぞお!」。
「あんたじゃ話になんねえや」と修がドアに行くと、「警察呼びますよ」と言われる。
「おぅ、呼んでくれよ、早く!」と言ったが、女性が受話器を取ると急いで取り上げ「冗談だろう!」。
それを見た女性がバカにしたように修を見るけど、急に大人しくなった修は、「あのぅ…、もし何かわかったら、さっき教えた電話番号にかけて…、お願いします」と言うとお辞儀をして出て行っちゃう。

そんな修が本当のワルになれると思ってたんでしょうか。
そうじゃなくて、長い逃亡生活となるはずの旅の傍らに修がいてほしかった…のではないでしょうか。

そして亨。
どうしてもいつも置いていかれてしまう亨。
誰かの大切な人になれない亨。
今度も辰巳の頭からも、貴子の頭からも亨の存在は消えていた。
いつもそうだからこそ、亨は修にとってかけがえのない存在になりたかった。

亨には常に、常に!修にも去られるのではないかという不安があった。
亨にとって修は全てだった。
修になら、自分の心臓もくれてやったかもしれないほどの存在。

それなのに修は離れていこうとする。
しかも、体の自由がきかなくなりかけている、そんな時なのに。
だから亨は苦しくて、つらくて、寒くて、修にすがり付いていた。
寂しくて、怖くて、ひたすら修に居て欲しかった。

修にとって亨は何だったのか。
空気だったと思うんですね。
存在感がないという意味ではなく、そばに居ることさえ意識していない当たり前の空気のような存在。
いなくなるなんてことを前提にしていないほど、当たり前の存在。

あの、「アニキいー」「アニキ」「アニキ」「行かないでおくれよ」は一生、修の耳に残りますね。
修を呼ぶ声は、亨のすがりつくような目と共にずっと、ずっと修の中に蘇っていくのだろうと思いました。
身をよじるような後悔にさいなまれながら、修はその声を聞き続ける。
…たまらないですね。

修に言いたいのは、亨は修を恨んだかっていうと、そんなことはなかったと思う、ということ。
修があの時でも、その後でもいい、とにかく亨のところへ帰ってきたのを見ることができたなら、亨はきっとうれしそうに笑ったと思う、と。
だって亨は修の事を慕って、呼び続けていたじゃない、と。
(いや、だからたまらないというのはわかりますが)。
でもこの2人の中には誰も入る余地なんかない。
だから、こんなこと言うのは余計なことなんですね、きっと。

「傷だらけの天使」世界ではピラミッドの一番上にいた綾部貴子も、その下の辰巳も破滅し、もちろん修も、そして亨も見事に幸せになれなかった。
「傷だらけの天使」はそれはもう、続編はできないほど(と思ってました)徹底的にその世界を壊して終わります。
謎の中国人マスターが話した通り、「お遊びの時間、もうおしまいね、みなお開きよ」になったわけです。

タイトルは「祭りのあとにさすらいの日々を」。
人生のお祭り騒ぎが終わって、修は1人生きていかなければいけない。
あとには色あせた日常が残っているだけ。
もうあの街には誰もいない。

その後、修はどうしたんだろう。
私はそれでも修は空しさを抱えながら、一人でちゃんと生き抜いていったと思うんです。

まるで、「新・必殺仕置人」のラストシーンで仲間を失いながら、たった一人残され、仲間が誰もいなくなった町で袖の下を貰い、笑みを浮かべて日常に戻っていった中村主水のように。
修は修のやり方で。


日本ドラマ史に残るショーケン・修、傷天についてはまた書きたいと思いますが、レビューはこれで終わりです。
いや~もう、終われた~。
読んでくださった方、本当にお疲れ様でした。
ありがとうございます。