映画「悪魔の手毬唄」は鬼首村という村が舞台。
この鬼首村は、冬枯れの光景の中にある。
そこを歩く金田一耕助。
取り巻く空気の冷たさを感じる。

「犬神家」と違って、絢爛豪華なところがない。
何もかもが古く、貧しく、湿っぽい。
寒村と言う言葉を思い出す。
絢爛豪華さはなくても「犬神家」同様、ここに表現されるものは日本人の「血」が感じ取る。

起きるのは、血なまぐさく、陰惨な殺人事件。
なのに、何という情緒豊かに感じることだろう。
鍵となる人物・恩田の容貌を、写真によってちらりとしか見せない。
この演出のうまさ。

恩田という男に狂わされる、村の女性たち。
なぜだろうと思う。
恩田ははたして、それほど魅力的だったのだろうか。

確かに娘の1人がスターになったことを思えば、魅力的な男だったのはわかる。
でもそれ以上に女性たちはこの閉鎖的な空間の外から、別の空気をまとって現れる男に新鮮さを感じたのではないか。
恩田は彼女たちにとって、日常から連れ出してくれる人物に思えたのではないか。
そう思えるほど、村は寒々と閉塞して見える。

告白する犯人と、日常生活を送る犯人を思うと、この犯した殺人の凄まじさが結びつかない。
そんな事をする人に思えない人が告白するからこそ、怖ろしく、だがそれが徐々に哀しみを帯びてくる。
愛と哀しみ。
そしてそれゆえに深い憎しみ、恨み、嫉妬。

ここに至るためには、積もり積もった恨みと嫉妬と、それによる狂気がなければならない。
告白する犯人はいわゆる、「そんな事をする人に見えない」。
まともな、哀しい人に見える。
しかし、やったことは凄まじい。

半ば我を失って語る様子で、まさしく一連の事件は、この人物がしたことだと感じられて来る。
犯人が最後にしたことは、ほかならぬ犯人の心を折ってしまった。
その慟哭に周囲の者、見ている者の気持ちが重なる。
犯人はもちろん、被害者も被害者家族も、犯人の周りの人間、全てが哀しくなる。

他の作品に比べると、これは犯人の連続殺人に至る動機が弱いと言われるらしい。
犯人の狂気を強調すれば、納得はいったかもしれない。
実際、後にそういう風に作られた作品もある。

しかし、この映画ではそうしない。
そうしないことで、犯人と周りの人々の描写と演技が重要になる。
この展開を、見ている者が納得できなければならない。

結果、動機が弱い、そんなこと微塵も感じさせない作品になった。
そして最後に残るのは、恐怖でも不気味さでも気持ち悪さでもなく、哀しみだった。
「悪魔の手毬唄」がある「一線」を越えさせないための悲劇なら、「悪魔が来たりて笛を吹く」は「一線」を越えたゆえの悲劇。

金田一耕助は、礼金を受け取らない。
こんな気持ちでは、受け取れない。
そう思っても無理はないほど、哀しい事件だった。
最後に去っていく金田一耕助が友人に向かって言った言葉は、汽車の音にかき消されてしまって聞こえない。

残された人々に、今すぐにでなくても良い。
いつか、この事件が乗り越えられるように。
幸せが訪れるようにと、願わずにはいられない。

汽車の音と、遠ざかる友人。
森の中を、汽車の白い煙が走っていく。
胸が締め付けられるような、切ないラストが待っている。
暑い夏に思い出したように見て、寒々とするのもいいかもしれない。


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2012.08.01 / Top↑
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