今も昔もサバイバル 「小野田寛郎の終わらない戦い」 その1
「小野田寛郎の終わらない戦争」

終戦後、29年間に渡ってフィリピンのルバング島で日本兵として残っていた小野田寛郎少尉にジャーナリスト・戸井十月がインタビューして構成された記録です。

私が子供の頃、まず横井庄一さんという日本兵がグアム島から帰還し、次にルバング島から小野田さんが帰還し、大変な話題になりました。

去年のお正月、ローカルテレビ局をつけていて「どこかで見たような」、しっかりした、でももうお年の方が出演されていました。
「あれー、小野田さんじゃないかなー?」と思ったら、やっぱり小野田元少尉だった。
1922年(大正11年)生まれだから、去年は85、6歳だったはずなんですが、すごい!
お元気!
すばらしい!
さすがというか。
何というか。
そんな気持ちになったのですが、小野田さんのことって実はあんまり知らない。

というわけで読んでみたこの本、知らなかったことや、小野田少尉から語られる戦争や当時の日本を始めとする話が非常に興味深かったです。

小野田元少尉というと…。
戦争や軍国主義・偏った教育の犠牲者
旧日本軍の生きた亡霊
人生を無駄にした「かわいそう」な人
「教育って怖いわねー」
…みたいなことばっかり言われてたし、そういう認識で語られていたと思うんですね。

戸井十月さんが、「彼自身のことも、彼が生きた時代の日本も、ほとんど何も知らなかったということを知った」というのが本当にピッタリな本でした。

当時の日本が正しかったか、そうでなかったかとか、肯定または否定するという話ではなかったです。
小野田さんが正しかったかどうか、戦争はしかたなかったとか、いけなかったとか、そういう話でもなかったです。
生きがいとは何か、どうやって人は過酷な時代でもポジティブに生きていくかとか、そういうことを考えさせられた話でした。



戸井「その頃の日本はどんな感じでした?」

「不況でした。
僕が小学生になった昭和3年から7年ごろまで、不況のどん底。
学校の朝礼でも、欠食児童といって、ご飯を食べていない子供が倒れるんです。
そんな時代だったから何とか国を広げて欲しいという空気が、じわじわと広がっていった。
商業の人はまだしも、農業や工業の人たちは特にそう思っていた。
このままじゃ食っていけない、ってね」。

元々、権威とか、縛られるのが大嫌いだった小野田さんは、よく教師とも衝突した。
規則は守らなければいけない、だが権力や権威に物を言わせて人に言うことを聞かせる、理不尽な命令をする、そういうのは大嫌いだった。

昭和14年、小野田さんは高等商業学校を辞めて、親にこのように告げて中国へ渡る。
「これからは自分で食べていくから、親の世話にはならない。
中国へ行って商人になって、お金を儲ける。
お金がないから、僕みたいなバカができるんだ。
お父さんは小野田の家から金に走るような子供ができたら困ると言ったけど、時代遅れだ」。

戸井「小野田さんは軍国少年と思われていたけど、全然違ったんですね」。
「堅い事が嫌いでしょ、わがままだし、規則に嵌められる事も大嫌い。
そんな人間が軍国少年なわけないでしょ、貿易商になって中国なんか行かないでしょ」。

貿易会社の社員となった小野田さんは、中国へ。
当時の中国には、外国人が特権を持つ「租界」という地区があった。
小野田さんの店では中国人には日本語を使わせなかったので、小野田さんはどんどん中国語がうまくなった。
当時の18歳の小野田さんはイギリス製のスーツに36年型スチュードベーカーという車を乗り回し、毎晩ダンスホールに繰り出すような青年だった。
中国語が上手いこと、車の運転が上手いこと、これが後の小野田さんの人生を決める。

昭和17年5月、二十歳になった小野田さんは徴兵検査を受ける。
貿易会社を退社し、入隊の日を待つ。
当時は軍事援助があって兵隊になっても1年間、給料がもらえたが小野田さんは退社。
もう死ぬと思っていたから戦死した時、「給料払ってやっちゃったな」と思われたくなかったから。

戸井十月「すんなり、そう思えるもんですか?」

「みんなが同じ状況でしょ。
みんな、戦争に行かなくちゃいけない。
自分だけ逃げて生き残ったとしても、あいつは逃げたって一生言われるでしょ。
アメリカだってそうでしょ、大統領選挙の時、ベトナムに行ったか行かないかって言うでしょ。
顔を上げづらくなるでしょう、泥棒でもやって生きていくならともかく、表通り歩けないって情けないでしょう。

本音を言えば誰だって、命に関わることなんてやりたくないですよ。
でも時代がそうだから。
みんなが無理してやっている時だからこそ、逃げたらなおさら攻撃されるんです。
みんなが嫌だけどやることから逃げたら、臆病者、卑怯者でしょう」。

中国人の友人の「重慶の奥地へ逃がしてやる」という申し出を断って、小野田さんは帰国。

戸井「権力者が嫌いで、親や教師にも反発していたのに、国家という権力が始めた戦争には反抗しなかった?」

「しなかったですね。できなかったというか。
ともかくみんなそうなんだから、逃げられないし逃げたくもない。
そういう時代の雰囲気ですね。

人雪崩で死傷者が出ますよね、人間も群集となれば自然のような現象を起こすんです。
国家もまた人の集まり、だから国家の起こす戦争は天変地災と同じと考えるべきだと思うんです。
そういう時代には嫌なら自殺するしかない。
個人の抵抗は無意味です、その中でどう生きるか考えるだけです。
人は、時代も国家も家も、選んで生まれてくることはできません」。

戸井「小野田さんには愛国心があった?」

「家族とか、故郷とか、そういうのを無視できない気持ちはあった。
そういう感情が繋がっていくと、結局、『愛国心』というものになるのかな。
だから元々は家族愛、郷土愛ですよね」

昭和19年、小野田さんが久留米の士官学校で、玉砕戦法「今で言う自爆」のトレーニングを受けていると、
「小野田は中国語ができるそうだな。東部第33部隊へ行け」という命令が下される。
聞いたことがない部隊だった。
上官は何の部隊か話さなかった。
そこは「陸軍中野学校」だった。

この学校は、軍隊組織から外れた参謀総長の直属だった。
つまり軍隊でさえ実態どころか、存在もよくわからないものだった。

そして「中野学校」に入った小野田さんが受けた教育とは、今までの教育とは正反対の、
「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ。
生きて任務を遂行するのが中野魂である」だった。

中野学校は、諜報部員の学校だった。
小野田さんが軍に見込まれた理由は中国語が堪能なこと、車の運転が上手いこと、写真が現像までできたこと。
諜報部員に必要な4つの能力、語学、運転、写真、無線のうち3つをもうクリアしていたことが大きかった。
剣道が強いこともあったかもしれない。

それと人間の資質。

「兄によく言われていました。お前のような人間は組織にいられないと。組織の方が置いてくれないと。
だから僕の性格は中野学校向きだったんですね」。

入校する際には上官から
「入校したら、軍籍を除く。
除くからには軍刑法にそむく行為があって除かれたということになる。
その通達が、貴官の家族に行く。
親兄弟は、世間に顔向けができなくなる。
村八分にされ、罵声を浴び、石を投げられ、嫁に行った身内は離縁されるだろう。
それでもなお、貴官たちはその事実を告げることができず、黙々と任務につかなければならない。

今から30分、時間をやる。
ただし、誰にも相談してはならない。
自分ひとりで考え、承知なら『諾』、嫌なら『否』と書き、自分の名前を書いて箱に入れておけ」
と言われた。

戸井「選ぶことができたんですか」

「できました。嫌々やっても途中でくじけるから。
個人で動くでしょ、管理監督できないし。
長男だったら家のことを考えてやめさせたり、医学生だったらそのまま医者になれって言ったりね、柔軟性があったんですよ」

小野田さんは思った。
士官学校で習ったことは死を覚悟した突撃だった。
ただひたすらに敵陣に突っ込み、1人でも多くの敵兵を殺すことだった。
ところがここではどんな生き恥を晒してもいいから生き延びて、ゲリラになれという。
「死ぬぐらいなら捕虜になれ、捕虜になって敵に嘘の情報を教えろ」。
その為には自由奔放、臨機応変、何をしても構わないという。
これこそ、俺がふさわしい、俺に最もあった戦争のやり方だ、と。

中野学校は自由だった。
精神主義ではなく、現実的で合理的で明るく、自由で和気藹々としたところだった。
何も強制はしなかったが、かえって強い意志が必要だった。
名誉もない、名前すら残らないような仕事をする。
上の目を離れて敵の中に入るのだから、逆に『国家』というものへの責任感を持っていないとできない。

戸井「『国家』とは何ですか?」

「要するに日本人のこと。
日本人が集まって国家でしょ。
だから『国家』を守るということは、日本人を守る為に闘うということ」

今は国家存亡の危急のとき。
だから日本民族がサバイバルする為、何をすべきかを考える。
精神論ではなく、徹底したリアリズムが必要だ、と。

退校を前にフィリピン派遣への命令を受けた小野田さんは、天竜川を前に自分に問うた。

「おそらく俺はフィリピンの山中で命のある限りゲリラ活動を続け、最後には誰にも知られずに死ぬに違いない。
たとえ俺がどれほどの戦果をあげようと、その功績は認めてもらえない。
それでもいいか?…いいだろう」。

フィリピンに行く時、中野学校では既に日本が占領されることは織り込み済みだった。
でもそれで日本が負けるわけではない、と言われた。
「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。
兵隊が1人でも残っている場合は、椰子の実をかじってでも頑張ってくれ。
いいか、重ねて言うが玉砕は、まかりならん」

そして送り出されたルバング島という、聞いたこともない名前の島。
そこで29年間も生きることになるなど考えもしなかった、小野田さん22歳。
日本の敗戦は8ヵ月後に迫っていた。
[2009/01/14 14:11 ] | 読書 | コメント(0) | トラックバック(1)
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